詩人・俳人達に愛された宿

中原中也

中原中也
中原 中也(なかはら ちゅうや、明治40年(1907年)4月29日 – 昭和12年(1937年)10月22日)は、山口県山口市湯田温泉生まれの詩人。旧姓柏村。350篇以上もの詩を残し、それらの一部は、中也自身が編纂した詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』に収録されている。また、『ランボオ詩集』を出すなど、フランスの詩人の紹介にもつとめた。

中也の詩のなかで、最初に活字になったものは『朝の歌』と『臨終』である。それらは諸井三郎により歌曲になり、1928年の第2回スルヤ演奏会で歌われたのだが、その際、機関誌『スルヤ』に歌詞として掲載されたのである。詩集どころか詩さえも発表していない、ゆえにまったくの無名といっていい詩人の作品に音楽がつくのは、きわめて珍しいケースであるといえる。

諸井は、中也の生前、彼の詩『空しき秋』『妹よ』『春と赤ン坊』に曲をつけ、中でも『妹よ』はJOBKで放送された。また、『スルヤ』の同人であった内海誓一郎は、1930年に『帰郷』『失せし希望』に作曲している。

中也の死後、石渡日出夫、清水脩らをはじめとして多くの作曲家が曲をよせている。クラシック系の歌曲、合唱曲が多いが、演歌やフォークソングも生まれている。とりわけ、友川かずきによるアルバム『俺の裡で鳴り止まない詩』が知られている。中也の友人であった作家の大岡昇平も、『夕照』『雪の宵』の2篇に作曲している。

当館とのゆかり
当館葵の間で、昭和8年に上野孝子さんとの結婚式と披露宴が行われた。
また現在はこの部屋で毎年、中原中也賞の選考会が開かれています。

種田山頭火

種田山頭火
882年12月3日(明治15年) – 1940年10月11日(昭和15年))は明治・大正・昭和初期にかけての俳人でよく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝と改名。本名・種田正一。

西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。11歳の時、母が自殺。旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)から早稲田大学文学部に入学するが神経衰弱のため中退。帰省し療養の傍ら家業である造り酒屋を手伝う。1910年(明治43年)結婚し一児をもうける。1911年(明治44年)荻原井泉水の主宰する俳句雑誌『層雲』に寄稿。1913年(大正2年)井泉水の門下となる。1916年には、『層雲』の選者に参加。

その後、家業の造り酒屋が父親の放蕩と自身の酒癖のため破産。妻子を連れ熊本市に移住。古本屋を営むがうまくいかず、1920年(大正9年)離婚。妻子を捨てて東京へ出奔。その後、弟と父親は自殺。1923年(大正12年)関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰る。生活苦から自殺未遂をおこしたところを市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に助けられ寺男となる。1924年(大正14年)得度し「耕畝」と名乗る。

1925年(大正15年)寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行う。1932年(昭和7年)郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)に「其中庵」を結庵。1939年(昭和14年)松山市に移住し「一草庵」を結庵。翌年、この庵で生涯を閉じた。享年57。

自由律俳句の代表として、同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって生計を立てていたところは似通っている。しかし、その作風は対照的で、「静」の放哉に対し山頭火の句は「動」である。

なお、「山頭火」とは納音の一つであるが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」である。「山頭火」は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけであると『層雲』の中で山頭火自身が書いている。

当館とのゆかり
昭和12年~14年頃、当館はしばしば出入りをしており、酒を馳走されたり湯に浸かったりしていました。そこで当時の山頭火のように自然を肌で感じて戴きたく、庵の名(風来居)にちなんで露天風呂を「風来の湯」と名づけました。

おすすめ宿泊プラン

カレンダーから選ぶ

  • 西村屋公式BLOG
  • 西村屋公式facebook

ゆかりの宿

パンフレットダウンロード


ページの先頭へ